2009 / 03
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小学校の同窓会の、三次会。
時は3月23日金曜の札幌ススキノのスナック「チャオ」。
40歳の有志5名、遠方から遅れて参加する同級生・田村久志を待つ。
ボトルを入れている常連・永田一太が、四人を連れて店に来た。
卒業以来28年ぶりの同窓会だ。
田村久志の小学時代の姿が、集う五人によって語られていく。

父を早く亡くし、着衣も、頭髪も、遠足の弁当も貧しい生活が感じられる田村は、
うつむきがちな少年だった。クラスにもう一人、ニヒルな少女・中村理香がいた。
「いつか、絶対、みんな、死ぬんだ」なにもかもつまらないと、彼女は泣いた。そのとき、田村は…。
第一話田村はまだか)。

腕白坊主のような池内暁が、職場で出会った、二瓶という男のこと。
二話パンダ全速力)。

焼酎いいちこを飲む、男子校の養護教諭・加持千夏と生徒の愛称キッドとの交流。
三話グッナイ・ベイビー)。

生命保険会社の営業所長、生保レディ20人の世話をしていて、女性とのつきあいには慣れているが、簡単に結ぶ男女関係が嫌いな、今も童貞の坪田隼雄。ある日、ブルースターと名乗る21歳の女性のブログを知る…。(四話きみとぼくとかれの)。

マスター・花輪春彦の過去。証券会社の課長で44歳だった一昨年、浮気が原因で、結婚20年目の妻から、だんなが定年になったら、別れようという同盟を知人たちと作っていたと告げられ、退職、離婚、禁煙、スナックの開店と激動の日々のこと。
離婚して、今はブライダルサロンで働く、ビールで酔いつぶれているエビスこと伊吹祥子のこと。
五話ミドリ同盟

田村との再会を待ちわびて、三次会で語り合う五人とマスター・花輪。
坪田が言う「田村のことを思うとき、おれたちの心は混じりけのないものになる」(196)と。
田村を待つ、彼らは「生まれたてみたいな」澄んだ目になる。と、花輪は思う。
そんな言葉の端々に、田村が来るのを、待ちわびる訳が見えてくる。
さて、田村との再会は?(最終話 話は明日にしてくれないか

◆ いろんなことを思った。
生きている実感とか、死と生きる意味のこととか。
自由な時間と、どうつきあって生きるのかとか。
つまりは人の「かけがえのなさ」って何だろうってこととか。

◆ 六話の連作の中で「第三話・グッナイ・ベイビー」は、愛称・いいちこ、こと千夏の話。
男子校の養護教諭・加持千夏が今も思い出す、19歳年下の生徒・キッドこと島村裕樹との出会いと別れ。
男子校の空気や匂い、当時34歳の養護教諭・千夏と生徒たちとの微妙な関係。そして、キッドとの、お互いに淡い恋心も含む、心の交流が濃密だった。母が亡くなり、母の実家の秋田に行くと告げるキッド。なまはげの口調で、千夏への思いを告げる場面は絶品!

(朝倉かすみ著「田村はまだか」光文社2008.2)



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◆ 医師・鎌田實さんと夜回り先生・水谷修さんの、週刊誌に連載された往復書簡。
今の社会に大切な問題を投げかけている二人の言葉。でも、読んでいると心がポカポカしてくる。
それは、二人が、人に向ける豊かで温かい眼差しを感じるから。
題名の「だいじょうぶ」は、戦争の国で白血病に苦しむ子供たちの治療をしている女医・タチアナ先生が、病気の子供たちを抱きしめながら、「だいじょうぶ、だいじょうぶ、私がついている」と語りかける言葉。柔らかで慈愛にみちて。
それは、二人の著者が読者に語りかける思いでもあるんだなぁと思った。
不安で冷えきった言葉に傷ついた心を、優しく抱きしめて語りかけるような…。
この本は、そんな言葉の宝庫だ。

◆ 「今日一日丁寧に生きていけば、明日は必ず来る」(151)という何でもない言葉が印象に残る。
「荒んで、落ち込むような暮らし」のあり方もある。
でも、良くも悪くも、暮らしは一日ごとの積み重ねという、当たり前のこと。
今日が上手く暮らせたら、明日も一日重ねるという平凡だけど、確かな営み。続けることで生まれる「力」を感じる。

◆ それは、以前ここで紹介した、落語家の小三治師匠が、高座で自分を見失いそうになると、呟く言葉の「小さく、小さく」に、どこか繋がる。
あの名人が「でっかい心で聴衆を飲み込む!」と言わない。
呑気そうに見えて、落語にかける激しい情熱。
生真面目過ぎるほどの性格。彼の日々を追ったTV番組で師匠の姿を知った。
「小さく、小さく」は、自分の心を落ち着けると同時に、どこか落語の真髄を表す言葉でもある。
噺の登場人物たちの、どこか脱力した生き方。のほほんとした人物たちの言動にホッとする。
血の通った原寸大の人間が感じられる。それは、バーチャルな閉じたものじゃない。
小さいかもしれないけれど、実は大きなものも持っている「人間」のある姿なのでは…。

◆ 話が脱線した。
この本は、重くて深い話を、わかりやすい、心に残る言葉で語り合っている。
まさに「だいじょうぶ」な思いがいっぱいの、一冊!

(鎌田實×水谷修・往復書簡 「だいじょうぶ」日本評論社 2009,3 )

◆ 「光」という題名から、しをんさんの、これまで読んだ「仏果を得ず」「風が強く吹いている」のワクワクさせる命の躍動感や希望に連なる作品だと思いきや、荒廃した暴力とセックス、人生の不毛と絶望が描かれている。

◆ 美浜島が突然大津波を受けて、島の建物や人の大半が亡くなる。
助かったのは、当時、中学生だった信之、美花、そして輔(たすく)の幼なじみ。
輔に体罰を加えるその父親。燈台守のじいさん。津波で身寄りを亡くした信之、美花、輔のその後の人生の奇跡を描いている。
美花が、釣り客・山中から強姦されていると思い込んだ信之は、惨状の島で山中を殺す…。

◆ 救いのない理不尽。荒涼とした景色と心の在りようが哀しい。
ここに描かれる「光」は、救いや希望を見せるそれでない。
物事の姿を判別させにくくする「逆光」の「光」だ。
こういう「不毛」「絶望」は、「希望」「夢」への憧れとともに、僕らの側にあるもの。
ボクラは何を求めて生きる?

◆ 好みの作品ではない。大好きな、しをんさんだけに残念だ。
でも、現実には、哀しい出来事がリアルにあることは、承知している。
溢れるほどの「絶望」の出来事が存在する世界。
作家に描いて欲しいと願うこと。
それは、哀しみや人の醜悪や絶望だけで終わらない何かなんだよ!


(三浦しをん著 「光」2008.11 集英社)




さくらんぼの花3
この間、ひとひら開花した、と思った「さくらんぼ」の花がほぼ満開。
さくらんぼの花は、少し桜より早く咲くのです。
花の形が桜とよく似ているので、花を見る人たちが「フライングの桜の花」かと言いながら
通り過ぎていきます。
今朝の花たち。ただし「さくらんぼ」の。

親しい友だちに誘われて、昨日コンサートにいった。
◆ 高石ともや、加川良、ばんばひろふみ、チェリッシュ、
そして、盲目の歌手・長谷川きよしという、不思議な取り合わせだった。
長谷川きよしが観たかった。

誘ってくれた友人も、初めて聴いた彼の演奏を気に入っていた。
古いヒット曲「別れのサンバ」「黒の舟歌」と
シャンソン「愛の讃歌」(越路吹雪さんの詩より、むき出しの愛を歌う、原詩に近いもの。)
など持ち時間を演奏した。
女性に手を引かれてステージに立った彼が、ギターを持つと、それが体の一部になったように
見事なギターテクニックをみせ、澄んだ声が会場を包んだ。

◆ ロマン・ロランが書いた「ベートーヴェンの生涯」読んだ。
本には、ベートーヴェンの手紙、遺書、思想の断片なども収められている。
難聴に抗して音楽を続けたが、病気のことを、かなり進行するまで親しい友人にも伏せて、
社交の場を避ける人間嫌いという誤解をうけたり、指揮した舞台で演奏の音が聴こえずに、
立ち往生して自宅へ逃げ帰った事もあった。
「自身を神の創った者の中の最も惨めな者と感じる瞬間がたびたび来る」(116)
と手紙に書くほど悩んでいる。

ロマン・ロランは彼の歩みを辿った後、書いている。
「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す それを世界の贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。」(68)

◆ 本を読むと、偉大な音楽の天才としてではなく、
悩みながら魂の戦いを続けた一人の人として、親しみを感じる。元気がでる。
長谷川きよしにも、障害の部位も、手がける音楽も違うけれど、音楽の才能だけでは測れない
ベートーヴェンと共通するものを感じる。
いや、障害の有無に関係なく、見えにくいけれど、人は様々な形で「魂の戦い」をしているのかもしれない。

(ロマン・ロラン著片山敏彦訳 「ベートーヴェンの生涯」 1938.11初版岩波文庫)


さくらんぼの花2
昨日、今年初めて咲いた「さくらんぼの花」。(写真は今日早朝のもの。)
本格的な暖かな春の足音だね。
でもね!小さな庭の片隅に在る「タラの芽」のふくらみの方が
気になっております。(笑)

◆ 角田さんのエッセイは、サクサクと読める。爽快な気分になる。
例えば、モロッコの砂漠の一泊ツアーで寝たときのこと。
「毛布というより、星空をかぶって寝ている気分
「明かりのまったくない砂漠で、月は月らしからぬ輝きかたで夜空を這っているのだった
(「UFOと火星」)読んでいると情景が浮かんでくる。

今はいない、おばあさんの味を再現したくて、梅干を漬ける話には、味の向こうにおばあさんの姿が見える。

◆ ボクシング観戦(特に「はじめて」の勝敗を感じやすい四回戦ボクサーたち)で、「強くなる」ってどんなことか、その思いを書いている。小説を書くことは「心底負けたと思い知る」ことから始まると実感を述べている。成功したい願いと、うまくいかない現実との落差に落ち込んで何かが始まるということだろう。ボクシングでも、生きることでも。
「強いということはものすごくしずかなことなのだ」という言葉も出てくる。
この「しずか」という表現が面白い。

◆ ニヤニヤしながら読んだ二部。
液だれしない「醤油さし」を探し、佳境にはいっている映画が上映されいる会場でメール受信をする人が気にかかり、道端で物売りから声をかけられてとまどい、今まで訪問した国の数を質問されてあたふたとし、「ゼロ、ひとつ、たくさん」しか数をあらわす言葉がない民族に思いをはせる。下品、下劣、メチャクチャな映画が好きなことに、改めて自分を発見し、家の中の最適な読書の場は「風呂」だという彼女の指摘に共感し、本を読むことの楽しみは「創ることの自由さ」にフンフンと、鼻息荒くウナズイタ。
 
本の題名は、最後に収められたエッセイと同じ。
肩書きや名誉を誇示したりしないで「花が美しさを誇示せずそこにただ在る
そんな生きかたをしている、ある人との出会いの話。そんな大人のステキさ。

飲み屋で親しいともだちと話すような、オモシロマジなエッセイ集。

(角田光代著 「何も持たず存在するということ」 幻戯書房2008.6)

本命くじら

Author:本命くじら
 本が好きです。自然も好きです。
人間という生き物にキョウミシンシン!
本は快楽。本はエネルギー。…ってことで。
 よろしく!

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